いわざきの自己紹介をさせていただきます。

目安時間:約 33分
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こんにちわ。元公務員の「いわざき」です。

 

今日は、わたくし(いわざき)の自己紹介をさせていただこうかと思ってます。

 

書いている人の顔が見えない(実際の顔じゃないですよw。その人となりみたいなところって意味です)ブログって「ほんまにこの情報は確かなんだろうか?」と思ってしまいますからね。

 

さあ、それでは早速、いってみよ~!

 

 

大学時代のぬるま湯マインドが抜けきれなかった社会人一年生時代

わたくしは平成の元年に名古屋のとある私立大学を卒業し、全国展開しているコンピュータ会社に就職しました。

 

時はバブル絶頂期の超売り手市場。卒業スレスレの成績で留年覚悟で就職活動をほとんどしていなかったわたくしでもどさくさに紛れて潜り込むことができました。

 

ただ、留年するつもりでいて、社会人になる意識というのが極端に低かった「いわざき」はすぐに社会人の生活についていけなくなり、入社して3ヶ月で退職願を会社に郵送で送りつけ、当時つきあっていた女性(今の女房)のところに転がり込んでしまいます。

 

ほんと、社会常識もなにもあったもんじゃないどうしようもないやつですねw

 

まわりは、失踪したんじゃないかということで大騒ぎになり、地元の親や友達のところにも連絡がいったりしてすったもんだしたのですが、最終的には会社の上司に説得され、復職しました。

 

復職後は少しは社会人としての自覚が出てきたのか自分的にはマジメに仕事していたのですが、親が失踪騒ぎで懲りたのか地元の役場の試験を受けてみろと猛プッシュしてきました。

 

自分としては迷惑をかけたという負い目もあり、どうせ一次の学科試験で落ちるだろうと思い、軽い気持ちで試験を受けました。

 

そしたらなんと、一次試験に合格してしまい、その後の二次試験の面接も親のコネのおかげなのか見事パスしてしまいまいた。

 

そうなってしまうと、いくら自分が今のコンピューター会社で働きたいと言っても親はまったく聞き入れてくれません。

 

しまいには、役場に転職しないなら勘当だというレベルで怒り出したため、またもや、前回の失踪騒ぎ以上にすったもんだした挙句に懲戒解雇に近いカタチで辞めることになりました。。。

 

 

ぬるま湯マインドの役所生活

 

ということで、静岡県の人口10万にも満たない地方都市(あえて伏せさせていただきます)の公務員として社会人2年目をスタートすることになりました。

 

役所の職員としてて働きはじめて、すぐに、役所の仕事は朝8時半から夕方5時15分までの自分の時間の切り売りの労働だということがわかりました。

 

仕事の内容はモロに「前例踏襲主義」です。

 

そして仕事を円滑に進めていくには、人間関係がほぼすべて(昨今流行りの『忖度』が必須スキル)だという事実。

 

職場が快適かどうかの95%は、上も下も人間関係に左右されるという田舎にありがちな濃密なコミュニケーション。

 

そんななかでいつしか「いわざき」は「長いものには巻かれろ」の向上心ゼロ&自分らしさゼロの周りの目ばかり気にする人間になっていました。

 

ただ、そんなだらしない人間でも、年功序列でピシッと決められた毎月の給料と民間では不確定なボーナスも夏と冬の年2回(自分が入ってからしばらくは春にも金額は夏冬ほどではないですがボーナスが出てました)は必ず支給されるという高待遇。

 

わたくしがこのような役所のぬるま湯生活にどっぷり浸かってしまったのも無理からぬことだったのかもしれません。

 

しかし、なかにはほんと数えるほどですが、何事にもポジティブで自分の意見をしっかり持っている民間でもバリバリやっていけそうな職員もいました。

 

「自分もあのように充実した毎日を過ごすぞ!」

 

と思うときは時々はありましたが、環境というものの人間に及ぼす影響は絶大です。決心をした翌日には昨日の決心をすっかり忘れて、どっぷりぬるま湯に浸かっている自分がいました。

 

 

「平成の大合併」の嵐のなかで一度目のうつ病発症……

 

公務員生活のぬるま湯にどっぷりと浸かっていた「いわざき」ですが、そんななか、わたくしが勤務していた市に合併の話が持ち上がりました。

 

いわゆる「平成の大合併」ってやつです。わたくしの市はすぐお隣の大都市に吸収されるカタチで合併することになりました。

 

そんなときに思わぬ人事辞令が発令されたのです。

 

合併日は平成17年7月1日でした。

 

その際に新しい市の議員の選挙事務の応援職員というカタチで合併の3ヶ月前の4月から本庁の選挙管理委員会に出向することになってしまったのです。

 

そこで、わたくしを待ち構えていたのは、今までのぬるま湯生活とは真逆のブラックな仕事環境でした。

 

ただでさえ、選挙事務は期限が決まっていることもあり残業が増える激務です。おまけに選挙事務についてはまったく経験がなかったにもかかわらず、抜擢されたというプレッシャーも上司からかけられていました。

 

そして、いざ本庁の選挙管理委員会事務に配属になってみると、吸収される側の立場が弱い職員として本庁の職員からのあからさま&陰湿なダブルパンチのいじめを受けて精神的に大打撃を受けました。

 

それだけではなく、ほぼ毎日、日付をまたぐ2~3時頃までの残業で体力的にも大打撃を受けて、いとも簡単に「いわざき」はダウンしてしまいました。

 

病名、うつ病です。。。

 

幸いなことに、ダウンしたときはまだ合併前(6月下旬)で人事権限が本庁ではなく、地元の市のほうにあったので出向終了ということで慣れ親しんだ職場に戻してもらうことができました。

 

 

合併後も相変わらずのぬるま湯の公務員生活が続いた日々……

このとき、わたくしは「あまり長期間休むと、復帰がしづらくなるから」とお世話になっていた上司に説得され一ヶ月ほどの短い休職期間で復職しました。

 

期待に添えず出戻りになってしまったという負い目と自分がうつ病になってしまったというショックで、職場復帰したもののしばらくは気持ちも全然晴れず鬱々とした日々を過ごしていました。

 

それでも、慣れ親しんた職場ということもあり、まわりの人にも恵まれ、徐々に回復していき平成18年のお正月には、クスリも不要になり(っていうか勝手に医者に行くのを辞めてしまったんですがw)うつ病前の元気な状態に戻ることができました。

 

そして、ちょっと学習すればいいものをまったく懲りもせず、程なくして、ぬるま湯の公務員生活にまたどっぷりと浸かっていました……

 

 

二度目のうつ病発症……

 

しかし、世の中そんなに甘くはありません。まだ40代半ばという働き盛り。地元の役所(その時は区役所になっていた)に定年までずうっと居られるという儚い夢がもろくも崩れ去ったのは合併から7年経った平成24年でした。

 

出戻りのうつ病持ちということでそれまでは人事異動対象から外されていたのですが、もう大丈夫だと思われたか、悪夢の本庁への人事異動が発令されたのです。

 

今度の人事異動も、前回の選挙管理委員会のときと同じく、それまで「いわざき」にはまったく経験したことがなかった社会福祉課。

 

そのなかでも「職員が異動したくない職場ベスト3」に常にランクインされている児童家庭相談室。児童虐待DVを主に扱う部署です。

 

DV相談に来た女性の涙、虐待にあった子供のあざ、虐待児童の親からのクレーム電話。

 

おまけにまわりの職員は全然知らない人たち、かつ、専門職の女性ばかりで、男は自分ひとりだけでした。

 

女性の職員同士はざっくばらんに話すことによってガス抜きをすることができますが、男である自分はひたすら溜め込むだけw

わたくしはまたもや3ヶ月でうつ病を発症してしまいました。

 

そう、二度目のうつ病発症ですwww

 

 

公務員を辞めて、苦しみもがく人生をあえて選択

 

休職したときのわたくしの年齢は46歳。

 

≪うつ病は人生を見つめ直すきっかけのサイン≫とも言われています。

 

自宅療養しているときに今までの公務員生活と残りの15年の公務員生活について考える時間は膨大にありました。

 

そのなかで、わたくしが出した結論は「公務員を辞めて自分の好きなことをやる」でした。

 

うつ病のときには大事な決定はしてはいけないというセオリーを無視した世間一般的に考えると無謀な選択だったと思います。

 

ただ、そのときのわたくしには、「今の公務員の給料ぐらいの稼ぎぐらいはなんとかなるだろう」という今考えてみると超あま~い目算がありました。

 

そして、副業のなかでも敷居が低くてとりかかりやすい「アフィリエイト」に取り組むことにし、いきおいで会社まで設立してしまいました。

ほぉぉぉんと、世間知らずのあまちゃんですねw

 

わたくしは2008年頃にアフィリエイトの存在をはじめて知りました。アフィリエイトのパソコンのみで完結する稼ぎの仕組みに魅せられて、当時大流行していた「PPCアフィリエイト」という手法を本業の公務員仕事のかたわら実践し、月に1~2万円ぐらいのおこづかいレベルの稼ぎを得て大喜びしていました。

 

その後も一見稼げそうな(←コレが危ない)情報商材を買いまくり、ちょっと実践しては飽きて辞めて、またちょっとだけ新しい商材の実践繰り返しすぐに辞めてしまうという悪循環の、俗に言う「商材コレクター」になっていました。

 

しかし、「アフィリエイトを本業として一日フルに時間をあてることができれば、稼ぐのはカンタンじゃあないのか」という確信というか今考えると「無謀な思い込み」が休職中に急激に大きくなっていました。

 

そして、2013年3月31日をもって、23年間の公務員生活にピリオドをうちました。

 

 

サイトの量産に疲れ果ててしまう

 

退職した時点では、うつ病はまったく完治しておらず、二週間ごとに通院はしていたし、クスリも10種類ぐらい飲んでいる状態でした。

 

そんな状態ですから、集中力と継続力が必要とされるアフィリエイト作業がほとんどできず、気ばかりあせって空回りしている期間がしばらく続きました。公務員は失業手当が出ないというのもあせりの一因だったと思います。

 

また、退職金も、すべてを家のローンの残金に充ててしまったため、手持ちのお金はへそくりしていた100万円しかありませんでした。

 

それでもなんとか作業できる環境を作らなければならないと思い、なけなしのへそくりをくずして、アフィリエイトの塾に入塾しました。

 

年間で50万円という高額塾です。

 

その塾は、サイト量産で稼ぐ、そのためには、とにかく「ガムシャラに作業する」というカリキュラムで塾内の雰囲気は体育会系なノリでした。

 

うつ病を抱えながらのサイト(ブログ)の量産作業は正直言って芳しくなく、日が経つにつれて肉体的にも精神的にも疲弊していきました。

 

そして、2015年7月、役所を退職したことによって、快方に向かっていたうつ病が再発するという最悪な事態におちいってしまい、塾を中途半端な状態で辞めることになってしまいました。

 

いきおいで設立した会社も3期(2016年4月)で清算することにしました。赤字まみれで会社らしいことを何もしていないので必然だったと思います。

 

 

ひとつのブログを大切に育てていく手法に出会う

 

そんな絶望のどん底状態で出会ったのが、あまり内容のない中身の薄いサイトの量産ではなく、サイトを訪れた人のタメになる価値ある情報を日々発信するブログを、少数精鋭でていねいに育てていくという手法でした。

 

この手法は、価値ある情報を提供するための日々のインプット作業がとても重要になる手法です。

 

元来、本を読むことが好きだった「いわざき」とこの手法は相性がよかったみたいで、うつ病の状態がひどいときでもインプット作業だけは続けることができました。

 

そうして、うつ状態が徐々によくなってくるに比例して、アウトプット作業の時間も増えていきました。

 

今では、アルバイトをしながら自分自身が納得できる人生を構築するために、「読書などのインプット→パソコンの前であれこれ考えつつアウトプット→アクセス解析などでの検証」のサイクルを繰り返す毎日を過ごしています。

 

特にここ最近は、インプット作業に一日の多くの時間を費やしています。

 

読書等で仕入れた情報を自分なりに咀嚼して価値のある情報としてわかりやすく世間に発信していくという作業の楽しさに今更ながら気がつき、

 

「こんなに楽しい手法を何でもっと早く実践していなかったんだろう」

 

と後悔しています。

 

今後の目標としては、ブログを大切に育てながら、いずれは、ブログからの収益だけで生活できるようにしていきたいと思っています。

 

 

※ここから先は、大学卒業までの「いわざき」についての自己紹介の追記です。お暇ならおつきあいください。

 

 

女系の家に久しぶりに誕生した男だった

わたくしが生まれたのは、昭和41年(1966年)です。

この年は、干支が丙午(ひのえうま)で「丙午年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮める」との迷信があり、出生率は前年に比べて25%も低くかったそうです。

 

ウィキペディアで、その年に、「いわざき」が興味があった出来事を調べてみると、

 

  • ビートルズ来日
  • ウルトラシリーズの元祖「ウルトラQ」の放映開始
  • サッポロ一番シリーズの最初の商品「サッポロ一番しょうゆ味」発売開始
  • 日本の人口一億人突破
  • 日産自動車が「サニー」を発売
  • トヨタ自動車が「カローラ」を発売
  • 東京に日本初のコインランドリーが開店
  • 明星食品が「チャルメラ」を発売開始
  • 江崎グリコが「ポッキー」を発売開始
  • 「週刊プレイボーイ」創刊
  • 「笑点」放送開始
  • ジョン・コルトレーン来日

 

などの出来事がありました。ビートルズの来日は何度かテレビで観たりしてよく知っていたんですが、その他のことは「へぇ~、こんなことがあったんだ」って感じです。

 

ついでに、同じ年に産まれた有名人も調べてみました。

 

  • 財前直見
  • 長嶋一茂
  • 三田寛子
  • 石黒賢
  • 松本小雪
  • 小泉今日子
  • 川上麻衣子
  • 薬丸裕英
  • 今田耕司
  • RICAKO
  • 坂本ちゃん
  • 松本明子
  • 広瀬香美
  • ジャネット・ジャクソン
  • 森尾由美
  • 中村あゆみ
  • パパイヤ鈴木
  • マイク・タイソン
  • 渡辺美里
  • 石川秀美
  • 永瀬正敏
  • 植草克秀
  • スガシカオ
  • 野々村竜太郎w
  • 佐々木健介
  • 鈴木保奈美
  • 西村和彦
  • 小谷実可子
  • 早見優
  • 斉藤由貴
  • 彦摩呂
  • 東山紀之
  • 高嶋政伸
  • 見栄晴
  • ソフィー・マルソー
  • 安田成美
  • 伊藤かずえ
  • 有森裕子
  • 江角マキコ
  • 国生さゆり
  • 高井麻巳子
  • トータス松本

 

これも「えっ、この人と同い年だったの!」っていうのが結構あって、ピックアップしていて楽しかったです。

 

わたくしが生まれた当時の我が家には、祖母と父・母、母の4人の妹の計7人が暮らしていました。

 

母は5人姉妹の長女で父は婿養子でした。

 

祖父(昭和27年に他界)も婿養子だったので、わたくしは久方ぶりの直系の男子でした。

 

そのためか、えらく可愛がられ、まわりが女性ばかりだったこともあり(父は家にあまりいなかった)、口を開けば食べ物が入ってくるという王侯貴族のような幼少期を過ごしていたらしいです。

 

性格的には、内気で人見知りがかなり激しかったので、幼稚園入園時はかなり周囲を困らせ、入園後、2ヶ月くらいは母が幼稚園まで送り届けていたらしいです。

 

そんなわたくしの幼稚園時代の思い出といえば、絵が好きで暇さえあれば「ウルトラマン」の絵を描いていたこと、年長のときの運動会の親子ダンスで泣きながら先生とダンスを踊ったこと(母は妹の出産のため欠席)、いじめられっ子に月に一度は鼻血を出すぐらいの乱暴を受けていたこと、ぐらいです。

 

 

レッテルと現実との間で、もがき苦しんだ小学校時代

小学校に入学する頃になると、本に興味を持ち始め、子供大百科などを好んで読んでいました。

 

数字に興味が出てきたのもこの頃で、今考えると意味不明ですが、新聞広告の裏に1から1000までの数字を小さな文字でビッシリと書くのがお気に入りの遊びでした。

 

小学校になっても、わたくしの内気な性格は変わらず、体育の時間のボール投げのときに目立つのがイヤで(左利きだった)右で投げて、女子より飛ばなくて、男子だけでなく女子からもからかわれた記憶は今も鮮明に残っています。

 

ただ、そんな内気なわたくしにも転機が訪れます。

 

1年生のときの、とあるテストでたまたま100点を4回連続とってしまったのです。

 

そのまぐれ当たりの4つのテストもバラバラに返してくれれば、そんなに目立たなかったと思うのですが、4つのテストをまとめて返したので、先生も目についたらしく「4つとも百点満点の人がいました」と大々的に宣伝してくれましたw

 

この事件以降、「いわざき」は「アタマがよくて、できるやつ」というレッテルを貼られてしまいました。

 

当時、わたくしが通っていた小学校には、2年生から学級委員長の制度があったのですが、上述のレッテルのおかげで2年生~6年生まで毎年、学級委員長に選ばれました。

 

くわえて、5年生のときには児童会の書記、6年生のときは副会長をやらされました。

 

何をやるにしろ目立ってしまう学級委員長という立場は、内向的なわたくしには苦痛以外の何者でもなかったです。

 

2年生のとき、夏休み最後の日にやっつけで片付けた温度調べが、夏休みの自由研究の学年代表となり、全校児童の前で発表しなければならなくなりました。発表会当日には、プレッシャーと緊張のせいで体温が38度まで上昇しました。

 

それでも発表会だけは出なければいけないと言われ、その時間だけ、スポットで学校に行き、発表会が終わったら即、家に帰って布団のなかでベソをかいていました。

 

学芸会でも、1年生のときはその他大勢だったのが、2年生からはずうっと主役もしくは準主役級の役ばかり。

 

運動会でも、全然速くないのに、クラス対抗リレーの選抜メンバーに自動的に入ってしまう。

 

委員長という立場にふさわしい人間でいるために、好きでもない勉強をして、その他大勢に埋没したいのに、代表として前面に立って、クラスを引っ張っていかなければならない。

 

この小学校時代の「意に沿わない役を演じる」という体験が、後々のわたくしの性格形成に大きな影響を与えました。

 

 

この頃の「いわざき」少年の趣味は?

小学校も高学年になると、わたくしにも趣味と言えるようなものができました。

 

わたくしの尊敬する人に、2歳年上のいとこがいました。

 

彼からは、BCL(Broadcasting Listening / Listeners の頭字語である。放送(特に短波による国際放送)を聴取して楽しむ趣味を指す。

 

日本では1970年代中頃から1980年代初めにかけて中学生・高校生を中心とした一大ブームが起った※ウィキペディアより)、鉄道旅行、ギターの楽しさを教えてもらいました。


高性能のBCLラジオが欲しくて、父の手伝い(柿の木の消毒や草むしり)をして、当時大人気だったナショナルの「クーガ2200」を手に入れ、学校でのイヤな出来事を忘れるべく、ベリカード(放送局の放送を受信したと証明する受信確認証)の収集にいそしんでいました。

 

鉄道旅行については、金銭的に余裕がないこともあり、もっぱら時刻表の上での誌上旅行でした。時刻表のおもしろさに目覚めたことで、西村京太郎の「寝台特急殺人事件」や松本清張の「点と線」などのトラベルミステリーを読み始めたのもこの頃でした。

 

ギターについても、金銭的な関係で、父のお古のガットギターにフォークギターの弦という変則なスタイルで、アリス、松山千春、中島みゆきなどの弾き語りに、果敢にチャレンジしていました。が、フォークギター初心者の最初の壁の「F」のコードがどうしても上手く押さえられなくて、だんだんと尻すぼみになっていきました。

 

この頃、絶大な人気を誇っていたテレビ番組に、TBSの「ザ・ベストテン」がありました。

 

 

わたくしもクラスの話題についていくために最初は義務で見始めたのですが、ほどなく、1位から10位までの曲の得点を暗記したり、番組冒頭に流される「レコード売上、有線リクエスト、ラジオ、リクエストはがき」の各部門のベストテンのテロップから、その日の総合のベストテンを予想するなどのマニアック的な楽しみ方をするまでにハマりました。

 

ギターの趣味と相まって、レコード収集と芸能界ウォッチも、わたくしの趣味のひとつに加わりました。

 

最初に買ったシングルレコードは、矢沢永吉の「時間よ止まれ」。

 

最初に買ったLPレコードは、ゴダイゴの「西遊記」でした。

 

それまでは、BCLの関係で「ラジオの制作」という雑誌を毎月買っていたんですが、「明星」がそれに加わりました。時々、付録の内容によっては「平凡」になることもありましたが、基本、「明星」派でした(理由は不明)。

 

時は、校内暴力が社会問題化しはじめた昭和54年(1979年)。学校生活に楽しみを見いだせなかったものの、趣味の世界が一気に広がった「いわざき」少年は、地元の公立中学校に入学することになります。。。

 

 

相も変わらぬ中学時代

昭和54年4月に、わたくしは地元の公立中学に入学しました。

 

2つの小学校区内にある中学だったので、わたくしの小学校時代を知らない人間が半分いることになります。

 

これは、チャンスです。

 

「中学校からは、その他大勢の一員として、ひっそりと暮らすことができるかもしれない♪」

 

と入学式当日のクラスオリエンテーションまでは、ご機嫌でした。

 

しかし、その目論見も担任の先生の一言で、もろくも崩れ去りました。

 

「委員長を決めなければいけないが、お互い、知らない人もまだ多いと思うので、一学期はこちらで決めさせてもらった。委員長は、「いわざき」。副委員長は、○○と△△だ。「いわざき」と○○と△△は前に出てきて一言あいさつしろ」

 

目の前にシャッターが降りた気がしました。

 

それまで、キラキラと輝いていた風景が、一転して灰色のモノクロの風景に変わりました。

 

「また、委員長という『できるやつ』を演じなければいけないのか……」

 

わたくしの中学校生活は「希望」とは裏腹の「落胆と憂鬱」のスタートでした。

 

二学期には、生徒会の副会長選挙にクラス代表として立候補させられました。校内放送での方針説明、全校生徒の前での立会演説会。徹夜で説明用と演説用の原稿を作成し、何回も何回も練習しました。

 

結果、得票数はクラス代表なのに、クラスの人数の半分……。

 

わたくしの中学校生活は、小学校時代と同じく、心配と不安が常に堂々巡りしていて「無駄あがき」だとわかっていてもやらなければならないという義務感のみで時間を浪費する日々の繰り返しでした。

 

 

その他大勢に戻ることができた高校時代

わたくしは、高校受験に失敗しています。

 

厳密に言うと受験自体は一応合格しているのですが、中学3年の2学期の、志望先の高校を決める一番大事なテストでの得点が伸びず、楽勝と言われていた進学校からランクダウンした地元の高校に志望先を変えざるを得なかったのです。

 

人生ではじめての挫折らしい挫折でした。

 

反抗期も重なったこともあり、この頃のわたくしはかなり荒んで(すさんで)ました。

 

そのような状態で高校の入学式を迎え、鬱々とした気持ちで高校生活がスタートしました。

 

高校になるとさすがに知っている顔はクラスで数人になり、わたくしの過去の栄光?も全然目立ちません。

 

おまけに自分よりすごいレッテルを持つ人間(議員の息子など)もいて、わたくしはようやっとその他大勢になることができました♪

わたくしの高校時代は、麻雀一色でした。

 

 

帰宅部と言われていた写真部に入り、ほぼ毎日、学校帰りに友達の家でジャラジャラやっていました。

 

当然、勉強などは二の次です。

 

入学直後の学年でもトップクラスだった成績は、見るも無残に下落していき、3年の大学受験時には、とりあえずの目標としていた地元の国立大学など夢のまた夢という落ちこぼれっぷりでした。

 

それでも、なんとか、名古屋の体育会系の私立大学に合格することができたのは、ラッキー以外の何者でもありませんでした。

 

 

バイトに明け暮れた大学時代

希望した大学でも希望した学部でもなかった大学生活は、高校時代の自堕落な生活に、一人暮らしというスパイスが加わって、よりパワーアップしました。

 

お昼近くに起きて、とりあえず大学には行くんですが、授業を受けるでもなく、学食で安飯にありつき、大学近くのパチンコ屋で夜まで過ごし、アパートに帰ったら、コーラとタバコをかたわらに置いて、ファミコンを朝方までピコピコやるという毎日。

 

 

こんな生活が2年ぐらい続いたんですが、さすがに、金銭的にきびしくなってきたので、喫茶店でアルバイトをはじめました。

 

喫茶店といっても、夜になるとお酒も出す「カフェ・バー」でのアルバイトは、最初は馴れずに悪戦苦闘していたんですが、ひととおり仕事を覚えてしまうと、かなり楽ちんで、食事食べ放題・ドリンク飲み放題という飲食系ならではの特典があったこともあり、11時の開店から24時の閉店までのフル稼働シフトでした。

 

バイト仲間同士のつきあいも新鮮で、仕事終わりには、その頃の大流行していたプール・バーによく行っていました。

 

時給600円×13時間×20日=156,000円の収入は、生活費にまわる前に、パチンコ&ファミコン&車で消えていきましたw

 

「いわざき」は今更ながら思います。

 

人生で一番幸せ(お気楽ともいうw)な時代は、社会的責任がなく、ひたすら無為に過ごしていても誰からも文句を言われることがない大学時代であると。

 

 

……以上で、わたくしが生まれてから現在までのひととおりを、ご紹介することができました。

 

「いわざき」という人間の人となりが、少しはわかってもらえたでしょうか?

 

 

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